今恋している?恋している時、たまりイヤなこともあるよね。
何でもかんでもうまくいっていることじゃないよね。
タクシーがゆっくりと坂道を上っていく。
速度が緩められ、目の前にはそびえ立つ大きな建物が現れた。
「ありがとうございました」
あたし、前園司(マエゾノ・ツカサ)は、タクシーの運転手にお礼を言った。
「いらっしゃいませ」
精算を済ませたあたしの耳に、開いたドアの外から、柔らかい声が届く。
「……こんにちは」
頭をぶつけないようにタクシーの屋根に添えられた、白い手袋に包まれた手。
ブルーグレーのジャケットに、ボルドーの飾緒(カザリオ)。
同じブルーグレーのケピ帽のつばから、キリッとした瞳が覗いた。
あたしがゆっくりタクシーを降りると、
「いらっしゃいませ。ホテル・シーフォートへようこそ」
と、そのドアマンは優しい声で囁いた。
「ありがとうございます…」
お礼を言ったあたしの目に、“doorman前橋”って名札が映る。
「どうぞ」
ドアマン…前橋さんはあたしをホテル内に導いてくれた。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
次々と掛かる声。
紺色の制服のベルボーイも、黒いジャケットのコンシェルジュも…イケメンしか居ない…。
フロントの女性も品のある感じだし…。
(すご…)
あたしは軽く会釈をしながら、エレベーターに向かう。
気持ちのいい吹き抜け。
綺麗に磨かれた床に、アンティークな調度品。
(高級ホテルだってのは知ってたけど…ここまでとはねー。あいつもイイ男捕まえたねー。つーか、あたし、ここ来たことあったっけ…?…何か見覚えあるような…うーん…)
あたしはピンヒールの足を進めながら、そんなことをぼんやり考える。
今日は後輩の結婚式がこのシーフォトで行われるのだ。
こんな高級ホテルで挙式と披露宴、なんて…かなり贅沢だわ。
エレベーターで会場に向かうと、クロークを発見する。
「いらっしゃいませ。お荷物をお預かり致します」
そこに控えていたフロントマンはそうあたしに言ってくれた。
「はい。お願いします」
あたしはコートを脱ぐと、彼に預けた。
落ち着いたグレーのジャケットの胸には、“Front Clerk 遊川(ユカワ)”と書かれた名札が付いていた。
これまたクールな感じのイケメンだこと…。
色素が薄い感じの髪や瞳が儚げな美青年、って感じ…。
「お預かり致します。こちら番号札でございます。お帰りの際にお渡しください」
コートと引き替えに、番号札を受け取り、あたしは頭を下げて受付に向かおうと、彼に背中を向けた。
…のだが、思い出してしまった。
「……」
思わず振り返ると、きょとん、と不思議そうな顔をした彼が居た。
「…何か、ございましたか…?」
そう。
この顔。
思い出した。
全部記憶から抹消してたから…思い出したくなかったのに…。
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